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- 新薬研究の開始
- 1973年秋、闘病(膀胱がん)中の周総理の主導で、「第4回人民代表大会」が開催された。この大会は人民に希望をもたらした。大会期間中、周総理は著名な老中医・方凌軒先生に心疾患(冠心病)の新薬研究についてたずねた。この年配の方凌軒先生は大変励まされた。
方老中医は家に戻り、家人と友人の丁さんに総理とのことに言及し、二人とも新薬の開発にわくわくした気持である。丁文中さんは、学術的観点から老中医・方凌軒先生と意見が異なるが、祖国の医薬事業に貢献できるということで、老中医・方先生に協力を惜しまない。
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- 研究・開発の障害
- しかし、衛生部で働いている庄さんは“四人組”の指示で、冠心病(心疾患)の新薬の研究-すなわち「城市老爺」(大きな町に住んでいる一部の金持ち・資産家)だけのための新薬の開発は停止すべきであると命令し、また動物試験中、突然死亡の事故が起きたと捏造し、試験を閉鎖させた。庄さんは老中医方さんの婿である身分を利用して、方さんに新薬の開発を止めるように説得し、またこれは上層指導者の指示だと言って、方老中医を揺さぶった。そして、方先生を支持してきた党書記李光さんは辺境に飛ばされ、方先生の学生鄭松年さんも迫害された。
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- 研究成功と、周恩来首相の逝去
- この状況下で、方先生は心身共に大きな打撃を受けていた。ちょうどその時、家の電話が鳴った。相手は敬愛なる総理だ。周総理は、実験は止めるべきでない、また、人員を充実し強力に新薬試験を推し進めることを指示した。周総理は方医師の妻から、方医師の家の状況を聞き、健康状態に留意するように進言した。このような総理の深夜の温かい電話に夫婦共に感動した。しかし、この時の総理はすでに重病の状態であった。その後、方医師は新薬の開発に邁進し、ようやく新薬の開発を成功させた。ちょうどその時、周総理は亡くなった。
方医師とその同志たちは、“四人組”の破壊活動に負けずに新たな新薬の開発に取り組むと決心するのだった。
- 冠心Ⅱ号方の創立者・開拓者である故・郭士魁中医師(1915-1981)が苦難の道を乗り越えて創製した新薬開発の物語を演劇化した『丹心譜』という書物(台本)があります。
1978年北京人民芸術劇院で初上演され、文化大革命後の中国で大人気を博しました(その後、中国各地で上演)。この新劇は、70年代前後、文化大革命の嵐の中で、ある老中医師がさまざまな障害を乗り越えて新薬を開発する経過を戯曲化したものです。
冠心Ⅱ号方の開発にあたっては、周恩来首相の一貫した支持があったと伝えられています。新薬開発の中心となった主人公が、さまざまな試練を乗り越えて周恩来への忠誠心を貫き、冠心Ⅱ号方の研究を完成させるというのが、この劇のあらすじです。
開発研究が国家プロジェクトで行われ、その物語が劇として上演されることはめずらしいことです。冠心Ⅱ号方の登場は、当時の社会にそれだけ影響をおよぼした画期的なものだったのです。 -
※「冠心Ⅱ号方」
中国文化大革命時代に、国家プロジェクトで開発された、心疾患のための薬。これに改良を重ねて、のちに日本で発売されたのが冠元顆粒である。漫画や台本など様々な書物が出版されており、
劇内容はDVDとしても出版されている。
1978年 蘇叔陽著作
老中医・方凌軒さんは、周恩来首相(1898-1976年)の支持を得て、冠心病の新薬開発研究に取り組みます。
“四人組”(文化革命の推進派)は衛生部(日本の厚労省)を抑えてコントロールし、衛生部の部員で老中医・方さんの女婿でもある庄済生を利用して、新薬の開発に対して多くの嫌がらせをします。
方凌軒らは彼らの迫害を恐れず、ついに新薬の開発に成功。ちょうどその時、敬愛なる周首相がこの世を去り、開発者たちは悲しみながらも気持を引き締めて研究を続けていくと決心するのです。
このドラマは北京映画制作会社が1980年撮映。
(引用文献)電影文学劇本 蘇叔陽著『丹心譜』(中国電影出版社 1979年5月)
(参考文献)中国百年百名中医臨床家叢書 張文康主編/翁維良等編著『中医臨床家郭士魁』(中国中医薬出版社2001年10月)
情報提供 栃木県 小野薬局 小野正弘氏