『冠元顆粒』開発ストーリー
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第1話
『冠心Ⅱ号方』の誕生
- 中国・文化大革命の
混乱の中で
- 中国・文化大革命の
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第2話
開発のはじまり
- 冠心Ⅱ号方、
国内開発へのスタート
- 冠心Ⅱ号方、
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第3話
輸入承認
- 臨床試験を重ねて、
いざ許可申請へ
- 臨床試験を重ねて、
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第4話
『冠元顆粒』発売
- 最後の壁を越えて、
冠元顆粒誕生!
- 最後の壁を越えて、
第1話中国・文化大革命の混乱の中で
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1960年代後半、中国は66年よりはじまった文化大革命のさなかにありました。政治や社会が激動し、人々は大変なストレスを強いられて、狭心症や脳卒中の患者が急増しました。
かつて中国建国に尽力した高齢の英雄たちも例外ではありません。故・毛沢東主席も気管支炎と重い心臓病を発病。あまりの事態に、周恩来首相は全国の医療機関に特効薬の開発を呼びかけました。 -
北京、上海、成都、広東…、全国の主要な医療研究機関が参加する国家プロジェクトが始動。中国伝統医学と西洋医学の長所を融合させて、中医学の新薬を開発する競争が繰り広げられたのです。
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その結果、西苑医院を中心とした北京チームの開発した処方が頂点に。丹参(タンジン)を主成分に、瘀血を改善する5種類の生薬を配合した「冠心Ⅱ号方(かんしん2ごうほう)」が誕生しました。
即効性が高く、狭心症や心筋梗塞など血管病の特効薬として、すぐに確固たる地位を占めた「冠心Ⅱ号方」。この中医学新薬をもとに、のちに冠元顆粒が生まれようとは、まだ誰も知る由もありません。(第2話に続く)
第2話冠心Ⅱ号方、国内開発へのスタート
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1980年5月、薬剤師の猪越恭也先生より、冠心Ⅱ号方を国内開発してほしいとの要望が届きました。先生は中国の医学雑誌で冠心Ⅱ号方を知り、必ず日本でも必要になると考えたのです。
当時の日本は豊かになる一方で、たくさんの人が過労の末に脳卒中や心筋梗塞などの疾患が増加することを、先生は見込まれていたのかもしれません。 -
私たちは、冠心Ⅱ号方の中国での使用状況を調査。冠心Ⅱ号方は注射薬であり、一般薬としての使用例はありませんでした。これでは、製品化に成功したとしても、日本で承認を得ることはできません。
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それでも、冠心Ⅱ号方の普及のために精力的に活動を続ける猪越恭也先生。その熱意に応えて覚悟を決め、処方設計を再検討して申請作業を進めました。しかし、厚生省からは、ほぼ不可能という通達が。
時を同じくして、東邦大学医学部/循環器専門のI.N先生が北京での学会で冠心Ⅱ号方に出会い、感銘を受けて帰国。ここから、猪越恭也先生とI.N先生とイスクラの共同研究がはじまります。(第3話に続く)
第3話臨床試験を重ねて、いざ許可申請へ
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1984年、日本での許可の見込みもないまま、冠心Ⅱ号方の改善製剤を国内メーカーで試作。東邦大学/I.N先生の指導のもと、イスクラの開発担当者自らが被験者となって臨床実験をスタートさせました。
次いで、実生産を行う工場を華西医科大学薬学院製薬廠に決定し、試作品の製造を正式に依頼。1986年には、本臨床試験用のサンプルを入手しました。 -
日本で許可を得るためには、外国での使用前例が不可欠となります。このため、日本に先駆けて中国で「冠心Ⅱ号方加減方」として許可を取得。「快心顆粒」とネーミングし、中国の一般医薬品として認められたのです。
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こうしてようやく、日本での医薬品許可取得のための道筋が開けました。イスクラ産業と華西医科大学薬学院製薬廠は、新たに合弁会社を設立し、開発作業をより円滑に進めていきました。
そして1988年11月18日、「快心顆粒」を一般用医薬品として申請も、「心」の文字が認められず、「冠群顆粒」という名称に改めて再申請。その書類は、臨床試験データを含め1000ページにもおよぶものでした。(第4話に続く)
第4話最後の壁を越えて、冠元顆粒誕生!
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万全を尽くし整えた申請にもかかわらず、またもや大きな壁が立ちふさがりました。主成分である丹参の国内での使用前例として提出した資料が適切でないと厚生省から指摘を受けたのです。
国内ではほとんど知られていなかった丹参。それを主薬にした前例を示さなければ許可が下りません。この非常事態に、私たちが協力を仰いだのは、大阪中医薬研究会の片桐平智先生です。 -
片桐平智先生はご自宅の(代々伝わる)蔵の中を隅々まで探し、ついに丹参を主薬とする処方の使用前例を見つけてくださいました。さっそく資料をお借りして審議会へ。どうやって探し出したのかと担当官も驚いていました。
こうしてようやく認められた「冠群顆粒」ですが、さらに優れたネーミングを求めて社内公募を実施。「冠元顆粒」という名前が採用されました。 -
1990年3月7日、3回目の審議会が開催され、2日後に「通りました」という電話が。1980年に開発に着手してから10年も待ちわびた朗報に、社内が歓喜に包まれたのは言うまでもありません。
そして7月13日、医薬品「冠元顆粒」の輸入承認を取得。翌年1991年3月1日、日本での発売が始まったのでした。
(完)
『冠元顆粒』開発の軌跡~それは絶えざる不可能への挑戦であった~
冠元顆粒は法律的には「基準外一般用漢方処方」に分類されます。
「基準外一般用漢方処方」の許可条件は以下のようになります。
- 1. 出典が明確であること。
- 2. 諸外国において医薬品として認可され一般薬として幅広く使用されていること。
- 3. 構成する生薬が我国において一般薬としての使用前例を有すること。
- 4. 既承認処方と類似性があること。
冠元顆粒は開発当初、これらの条件にはどれも該当しませんでした。
この壁を乗り越えて、日本に誕生した歴史を紹介します。
開発のはじまりと壁
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- 1980年5月
- 猪越恭也先生(※)よりイスクラ産業へ開発要望書提出。
- 1980年6月
- 猪越恭也先生、『冠心Ⅱ号方(※)』に関する論文を発表。
- 1980~1983年
- 中国における一般薬としての使用状況を調べるも不明。注射薬のみしか例がない。
- 1983年10月
- 煎剤としての許可取得の可能性を厚生省へ問い合わせ。非常に難しいとの回答。
- 1984年4月
- 厚生省へ製剤としての許可の可能性打診。殆ど不可能に近い回答。
- 猪越恭也先生:
- 元イスクラ社員で薬剤師。東京・多摩地区で東西薬局を開局。文献で『冠心Ⅱ号方』の素晴らしさを知り、なんとか日本人のために、日本に導入できないかと切望された。
- 冠心Ⅱ号方:
- 冠元顆粒の元になる中国の注射剤、冠心Ⅱ号方は中華人民共和国の設立に貢献した元老たちを救うために、国家的な規模で開発された、生薬由来の医薬品。
日本での試作・実験
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- 1984年7月
- 国内にてサンプル試作。
- 1984年7月
- 国内試作品及び生薬にて薬理実験開始。
- 1984年10月
- 国内試作品にてパイロット臨床試験開始。
- 1984年7月
- 国内にてサンプル試作。
中国での試作・開発
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- 1985年1月
- 華西医科大学薬学院(※)へサンプル試作を正式依頼。
- 1985年 5月
- 第1回試験用サンプル入手。
- 1986年4月
- 臨床試験用サンプル入手。
- 1986年11月
- 華西医科大学訪問。院長より合弁の可能性につき打診を受ける。
- 1986年12月
- 『快心顆粒(※)』中国国内において許可を受ける。
- 1987年1月
- 日本中医薬研究会の正式活動開始。華西医科大学との合弁工場設立の夢、宣言。
- 1988年3月
- 華西医科大学との第1回合弁交渉。
- 1988年4月
- 第2回交渉。合弁内定。
- 1988年6月7日
- イスクラ産業と華西医科大学薬学院との間で合弁の正式調印。
- 1988年11月
- 厚生省へ承認申請。
- 華西医科大学:
- 中国での実生産を行う工場を探すため、中国の衛生部(日本での厚生省にあたる機関)を訪れ、そこで紹介されたのが、四川省・成都市にある、中国の国家重点工場の一つでもある華西医科大学(現在の四川川大華西薬業)。
- 快心顆粒:
- 外国での『冠心Ⅱ号方』使用前例の問題を解決するため、中国で許可を取得し『快心顆粒』という名称で医薬品として認められる。これにより日本での『冠元顆粒』承認取得への大きな一歩となる。
輸入承認
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- 1989年5月
- 合弁会社中国国内において批准を受ける。
- 1989年6月
- 厚生省ヒアリング。
- 1989年9月
- 第1回漢方調査会。
- 1989年11月
- 第2回漢方調査会。
- 1990年3月
- 第3回漢方調査会。
- 1990年3月9日
- 厚生省より薬事審議会パスの連絡を受ける。
- 1990年10月9日
- 華西医科大学製薬工場よりイスクラ産業代表へファーストロットが手渡される。
発売
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- 1991年2月
- 冠元顆粒新発売記念講演会(全国8ヵ所)開催。
- 1991年3月1日
- 冠元顆粒新発売。イスクラ産業創立31周年記念日。